宝泉寺温泉の伝説

『天慶元年(938)空也上人が、諸国巡錫の途中、一猟師に会い、奇跡を予言して持っていた杖を大地につきさして去っていった。その杖が大杉となり、天禄三年(972)、大地震がおこり大杉の根元より突然温泉が湧出し始めた。驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一字の寺院を建立し、上人が宝の泉を下さったというところから寺を平原山宝泉寺と定め、本尊に空也上人と大日如来を安置したと伝えられています。』(宝泉寺温泉組合HP参照)

宝泉寺温泉の歴史

宝泉寺温泉は昔は自然湧出の自噴泉でありました。当時の自然湧出していた泉源は大きく分けて六ヶ所あり、中尾の下(湯元屋の泉源)、平原の河川敷、元鎌義さん下(矢野和三郎氏前の河川敷、川端湯(共同浴場)、いずみやの湯、床の下の湯(戸沢)と大別されます。その中でも共同浴場として利用されていたのは川端の湯と床の下の湯で、中でも川端の湯は川端の湯は男女別に区切られ時代の先取りであった。それもそのころの宿屋の浴場は当時混浴であったからだ。終戦後(昭和25年以降)特需景気以降施設の充実、拡張と個人で泉源を持ち内湯を我が家にという風潮が強まり掘削(当時パーカッション式)が割安でできるというので、至る所で掘られるようになったし、自然湧出も段々と無くなり現在では皆無となった(湯元屋会長著書矢野氏のあゆみ参照)

宝泉寺温泉の薬師様(湯元屋の泉源にある石仏)

宝泉寺には歴史を考証すべき文化財は少なく、宝泉寺という地名に由来する寺もありません。宝泉寺温泉の湯元屋さん所有していた旧中尾の下湯源泉(現在はかれてしまっているが)に高さ2m位の大きな石がある。この一面に高さ45cm、巾54cmの四角の石龕(せっかん・せつがん)を掘り両端に雲頭塔型を刻み中央にさらに舟型龕を掘り中に円型光背を持ち蓮華座に立つ仏像が半肉掘りされている。地元では薬師様と呼んでいるので薬師如来の立像であろう。ただこの型式は摩崖仏の範囲なのか独立尊なのか迷うところである。紀元銘は四角石龕の向かって右側に刻まれているが風化著しく「永■八年■■三月■■」としか読み取れない。中世年号で「永」の字のつく年号は永享八年(1436年)、永正八年(1511年)、永録八年(1565年)などあるが干支が読みとれないので、いずれも決定しがたい。いずれにしても室町時代の作品である。中世における風呂は「むしぶろ」が主流であった。しかし地域によっては桶湯を利用することもあったのであろう。入浴することは病気療養の一手段であり、病気を治す仏様である薬師如来とのむすびつきは各温泉地に見られる。昭和20年代まで自然湧出していた中尾の下湯源泉に室町時代建立の薬師様を祭っていることも何かしらの歴史的由来を感じてしまいます。

川底温泉の伝説

歴史は古く延喜元年(901) 菅原道真が、刺客を逃れる為に、この地の白雲山浄明寺に身を隠した。その時に 川底温泉は開かれたと言う。湯舟の底は丸い大きな石がゴロゴロと川底の感じそのままである。男女の別はなく混浴である(宝泉寺温泉組合HP参照)

壁湯温泉の伝説

享保年間(1716〜1735)傷ついた鹿が町田川の川辺で湯浴びするのを見た猟師が温泉であることを発見し、険しい岸壁に道をつけ、洞窟に浴槽をつくり、入浴出来るようにしたのが始まりと伝えられています。又、昔仙女がここに住んでおり、朝未明に入浴して身を清め、日の出とともに、昇天したという伝説があり、別名仙洞温泉とも言われています。ラジウムを多量に含んだ単純泉は、飲用すれば胃腸に良く、火傷などの皮膚病関係の治療に著しい効果があります。洞窟温泉の上流200mに仙女にちなんだ落差8mの「仙洞の滝」があります。(宝泉寺温泉組合HP参照)